理事級の6人が直立不動で舛添知事の話を聞いていた。
昨年5月16日、都庁第一本庁舎7階の特別応接室で行われた知事補佐官への訓示。緊張した表情の新補佐官を前に、舛添知事は「ぜひ仕事の出来る組織にしたい。一緒に頑張りましょう」と熱く語った。
都庁という巨大組織を効率的、効果的に動かしていくため、知事補佐官制度の創設はトップマネジメント機能を強化する第一歩と位置付けられた。選挙公約では厚生労働大臣の経験をもとに、「知事キャビネの設置」を掲げていたが、外部人材を起用した大臣キャビネに対し、都庁では内部人材を登用することで実現を図った。
知事に就任してから3カ月。いきなりの予算議会を無事に乗り切ったが、舛添知事の目に映った都庁マンの仕事ぶりの印象は「ぬるま湯」だった。
昨年5月9日の記者会見。舛添知事は「前の人を批判する気はないが、週に1回しか出て来ないとか、過去20年間にわたって知事は誰でも良いと(言われてきた)。ぬるま湯に浸かった20年間は忘れてください」と語りながら、組織改革の一環として補佐官の設置を発表した。「(この3カ月間は)慣らし運転。今から高速道路に行って100キロのスピードで走らないといけないが、加速が悪い。グリップできるところから変えていく」
補佐官設置の指示は、昨年5月の大型連休中、幹部のもとに突然舞い込んだ。
政策企画局など局長級6人に、各局と知事の橋渡しをする「連絡将校役」として補佐官の兼務を発令。知事は補佐官会議を週2回開き、テーマを設定せずに議論した。
補佐官の一人は「知事からその都度、宿題が出され、各局の担当に検討するよう指示し、その結果を知事に報告していた。政策を決定したことはない」と明かす。
当初は「大変うまく機能して、変えて良かった」と評価した知事だったが、半年も経過すると、議論が不十分だと不満を募らせ、週1回はテーマを決めて議論する形に切り替えた。さらに知事が左股関節症の手術を終え、公務に復帰した今年4月30日以降、補佐官会議は首脳部会議に改められ、副知事らも出席するようになった。しかし、「局務報告との違いが見えにくくなった」と指摘する幹部もいる。
現在、首脳部会議は開かれていない。その背景には、補佐官メンバーの交代がある。
今年度に入り、局長級以外に4人の「知事補佐担当部長」が誕生。さらに8月には1人が交代し、局長級2人と部長級4人の計6人体制となっている。現在は部長級3人が専任の知事補佐担当部長となり、知事のそばに常駐。知事から指示を受けたり、報告を上げやすくなった。「知事は今の体制に満足している」と見られている。
知事補佐官の設置と並行して、知事本局の解体と政策企画局の新設も打ち出された。
知事は旧知事本局を「歴代の知事の関心事項が寄せ集まり、単なる作業部隊。複数局にまたがるというだけで知事本局の所管になっている業務も多い」と酷評。旧知事本局が所管していた尖閣諸島、拉致問題、レアアース関連などは他局に移管し、肥大化した組織をスリム化し、「頭脳集団への純化」を図った。政策企画局はこれまで、長期ビジョンの策定などを知事の「直轄」で行うなど、知事が意図した機能を果たしているようにも思える。ただ、頭脳集団に純化した分、マンパワーが削減され、「政策企画局が知事マターを引き受けなくなった」との指摘もある。
重要施策などを審議策定する場としては、石原都政時代に設置された政策会議が今もあるが、舛添知事は「知事と現場を抱える各局が徹底的に議論をして政策を練り上げる」という組織のイメージを持っており、現在は知事へのブリーフィングが主に政策会議のような役割を果たしている。その分、知事ブリの頻度も増えているようだ。
知事ブリの手続きは現在、政策企画局調整部政策課を通じて、補佐官らも加わる政策企画局長へのレクチャーなどが前提になっている。庁内からは「自分たちの局長の了解を取っているにもかかわらず、政策企画局から説明資料などに駄目出しがあり、やり直しを命じられる。この関所が難関だ」との本音が漏れる。知事ブリで注文が付く前に、政策企画局が事前調整しているというわけだ。
知事ブリでは各局の報告にとどまり、波風が立つことはほとんどない。知事が「はい、分かりました」と言って、知事ブリを終えるのが通例となっている。知事が期待していた政策を練り上げるための熟議は出来ているだろうか。
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