鹿児島県阿久根市のあの騒ぎは遠い九州の小さな市の出来事で、きっとこの世のものではないのだと錯覚すら覚えていたのだが、大阪や愛知までもが何やらおかしなことになっている。最近では新潟も似たようなことを言い出した。一体、どうしたことか。 二重行政を排するために市を廃止して都制度にする? 二重行政を自分たちで見直せないから制度を変えて無理やり枠にはめようとするなら、逆上がりができない子供が鉄棒を直せと言っているのと同じではないか。 もともと戦時体制として生まれた東京都制を戦後の地方自治制度の本則に近づけるため、60年このかた、都区双方が時に鋭く対立しながらも努力を重ねてきた膨大な歴史をご存じないのであろうか。選挙を前にした争点作りのためなら、時計の針を逆に回すような急場しのぎの讒言(ざんげん)も許されると思っているのだろうか。 なお腹立たしいのは、この手の粗雑な議論が、「地方分権」という体裁のいい修飾語を身にまとってしまうことである。 地方分権とは、住民福祉を基本に据えて、権限の配分をいかに合理的に行うかが全てである。これが国と地方の間では権限と財源の争奪戦として表れる。どちらか一方に軍配を上げて済むものではない。ところが、国の不作為で地方分権が進まない、と私たちの頭には強く刷り込まれているから、「地方分権=善」という固定観念が出来上がってしまっている。 名古屋の選挙も、減税という最も耳障りの良い公約を「自分たちのことは自分たちで決める」という分権の発想で脚色し、議会との対立を演出したものだった。そんな都合の良い公約だけでやっていけるなら、誰も苦労はしない。国政の混迷に乗じて、悪いことはみな国のせいにする。シンプルな対立軸をことさら強調し、自ら辞任して限られた論点に「これが住民参加ですよ」と有権者を誘い込む。30年前は、地方自治とは「行政自治」か「住民自治」かという論点だったのではないか。有権者もなめられたものである。 こういうのを「地方自治の横暴」と呼ぶべきであろう。しかもそれは、国政の混迷の映し絵のようだ。それでも選挙は行われる。選挙が行われれば器が決まり、次は行政が器を受け入れ、役人が覚悟を決める番だ。 あと2カ月。今度は私たちが覚悟を決めなければならない。 (みやこ鳥) |