1999年4月から2012年10月までの13年半にわたり都知事を務めた石原慎太郎氏が1日、死去した。89歳だった。「東京から日本を変える」と宣言して初当選し、高い発信力で庁内外に大きな影響をもたらした。都知事就任後は財政再建団体転落の危機にあった都の財政再建に尽力。ディーゼル車規制や銀行への外形標準課税導入など、日本をリードする施策も展開した。また、五輪招致に乗り出したほか、外郭(がいかく)環状道路の凍結解除や羽田空港の国際化など、現在の首都・東京を築く基盤整備を進めた。一方で、1千億円の累積赤字を出した新銀行東京の設立や尖閣諸島の購入表明などで批判も浴び、歯に衣着せぬ発言が物議を醸すことも多かった。 =4面に関係記事 石原元知事の訃報を受け、小池知事は1日付でコメントを発表し、「『東京から国を変える』との強い信念の下、都政を力強く牽引してこられた。ディーゼル車規制をはじめ、都政に残された数々の功績は、今なお貴重なレガシーとして、成熟都市・東京にしっかりと根付いています」とたたえた。また、東京大会の招致にも言及し、「今、都政に課された使命に、首都・東京の発展に対する元知事の強い思いを受け継ぎ、尽力していく決意」を示した。2日時点で都葬などの予定は未定という。 石原氏は1932年、神戸市生まれ。一橋大学在学中の56年に『太陽の季節』で第34回芥川賞を受賞。68年に参院議員として政界入りした後、衆院議員に転身し、環境庁長官や運輸相を歴任した。75年には都知事選に出馬し、233万票を獲得するも、現職の美濃部亮吉氏(3選)に35万票余り届かず次点となる。 国会議員を引退した4年後の99年4月に都知事選に再び立候補。告示日15日前に表明する「後出しジャンケン」で注目を一気にさらい、鳩山邦夫氏や舛添要一氏、明石康氏といった有力候補を大きく引き離し、166万票余りで初当選した。 99年4月23日の初登庁時には、職員に向けて「中央政治が変わらないので、東京から新しい行政システムを作っていきたい。東京は日本の機関車たり得る」と職員を鼓舞。その後も繰り返し強調した「首都公務員」や「現場を持つ強み」などの言葉は今でも現役職員に受け継がれている。 ■財政再建に尽力 後に「『えらいところに嫁に来たな』と思った」と回顧したように、石原氏就任時の都財政は危機にひんしていた。 バブル崩壊後に税収が大きく落ち込み、青島都政下で財政健全化に着手したが、98年9月には財政危機の「非常事態宣言」を出す事態にまで追い込まれた。就任直前の98年度決算は、経常収支比率が99・3%で、18年ぶりの赤字決算となった。 石原氏は就任直後、「財政再建団体に転落するかどうか、徳俵の上に足をかけた状況」と評し、就任1カ月後の5月に財政再建プランの策定に着手。7月には4年間で5千人の職員削減や職員給与4%カットなどを盛り込んだ第1次財政再建プランを、03年には更に4千人の職員削減などを盛り込んだ第2次プランを策定。06年までの7年間の厳しい行革で一般会計規模は約2割縮減し、庁内からは「乾いたぞうきんを更に絞るようだ」と悲鳴が上がった。 徹底的な緊縮財政の末、2期目の07年度予算編成時には「財政再建は一つの区切りを付けた。大きな節目になる予算が仕上がった」と財政危機からの脱却を宣言した。 ある幹部職員は「このときの財政再建があったからこそ、コロナ禍の今でも安定した財政基盤がある」と振り返る。 ■福祉改革 「石原改革」の代名詞となるディーゼル車規制とともに、職員が「辣腕を振るった」と評価するのが「福祉改革」だ。 就任当初の「何がぜいたくかと言えばまず福祉」との発言は批判を浴びたが、財政再建中の2000年に始まった福祉改革では、「コストが拡大し続ける福祉分野で、行政が税金のみを源泉として直接サービスを提供する現行方式は限界」として、「直接給付」から「サービス給付」に転換。老人医療費助成や老人福祉手当、シルバーパスなどの経済的給付事業を廃止・見直しを図る一方で、高齢者福祉センターや障害者通所施設の拡充、都独自の設置基準を設けた認証保育所制度の創設などを打ち出した。 当時幹部だったOBは、「高齢化社会が進む中で、『現金給付』から『サービス給付』への転換は避けては通れない課題だった。改革を断行していなかったら、今の都財政はもたなかっただろう」と話す。 ■インフラ整備 都市基盤整備を功績に挙げる職員も多い。 「都庁から富士山がきれいに見えるのは石原知事の取り組みの成果」。ある幹部職員はディーゼル車規制によって東京の空気がきれいになったことをそう表現したが、その背景には道路網の整備によって渋滞が減ったことも欠かせない。石原都政下では、首都高中央環状線の整備や多摩南北道路の整備などを進めたが、中でも外郭環状道路の整備は、石原氏の決断で事業が動き出したと評価する声が多い。 外環は1966年に高架構造で都市計画決定されたが、土地収用や排ガスによる環境悪化の懸念で住民の反対が強く、70年に計画が凍結された。これに対し、石原氏は99年、「地域環境の保全やまちづくりの観点」として地下化して取り組む考えを表明。地下40メートルの大深度地下を通す計画に変更し、事業が動き出した。 現在は工事による道路陥没事故などで整備がストップしているが、完成すれば都心部への交通流入が減り、東名から関越までの時間も5分の1に短縮されるなど高い効果が期待される。 ■大規模イベント 「集客効果だけでなく、日本という国家存在をアピールすることが大事」─。05年8月の会見でこう語り、初めて五輪招致への意欲を表明した。当時は側近の浜渦武生副知事の「やらせ質問」を巡って自民党との間で亀裂が生じていた時期で、関係修復の材料にもなった。結果的に16年大会の招致は失敗し、IOCへの不満も公言していたが、「たいまつの火は消さない方がいい」として再挑戦に道筋を付けた。 五輪組織委員会の橋本聖子会長は石原氏の死去を受け、「オールジャパンの旗の下、招致活動が力強く推進されたのは石原氏のリーダーシップあってのもの」と謝意を示した。 また、石原氏主導のビッグイベントで忘れてならないのが東京マラソンだ。03年に「経済波及効果、スポーツや観光の振興につながる」と、銀座や浅草などの都心を走る構想を発表。07年2月に初開催となった。現在の市民マラソンブームの火付け役となり、13年大会からは「ワールドマラソンメジャーズ」に加入するなど、世界の主要マラソンの一つに成長した。 一方、同じく石原氏が提案した三宅島のバイクレースは大きく姿を変える結果に。火山噴火による観光客の激減を受け、活性化策として打ち出した当初は島を一周するレースを想定していたが、安全性などの面から07年の第1回はツーリング形式に。現在はエンデューロレース主体となり規模も縮小した。 ■都政の混乱も 石原都政で負の遺産と言われ続けたのが新銀行東京だ。銀行の「貸し渋り、貸しはがし」が社会問題化する中、石原氏が中小企業の経営を支えるため、官製銀行の設立を2期目の公約に掲げた。だが無担保融資などずさんな経営で、開業後わずか3年で1千億円の赤字を抱える事態に。400億円の追加出資は都議会で議論を巻き起こした。 また都議会では、懐刀の浜渦副知事による都議会での「やらせ質問」疑惑で百条委員会が設置。石原氏の発案による文化事業「トーキョーワンダーサイト」への四男で画家の延啓氏起用による公私混同も批判を浴びた。 さらに4期目当選直後の12年4月には、中国が領土を主張する沖縄県の尖閣諸島を都が民間の地権者から買い取る考えを表明。専管組織を立ち上げ、募った寄付には約15億円が集まったが、都政とかけ離れた取り組みには批判も多かった。購入に向けた現地調査を行ったが中国が反発を強め、外交問題として先鋭化する中、政府も国で購入することを閣議決定。一定の終焉を迎える中、石原氏も国政に復帰するため、10月に都知事辞職を表明した。 ■職員の意識改革 石原氏の発案で、今となっては当たり前になったものも多い。その一つがラッピングバスだ。条例で規制されていたバスの全面広告を条例改正で実現。歳入を税収に頼る行政で、今でこそネーミングライツやふるさと納税などの財源確保の取り組みは当たり前となったが、公務員のコスト意識改革につながる取り組みの先駆けとなった。 行政コストの意識改革では、複式簿記・発生主義会計制度の導入も大きい。大学在学中に公認会計士の勉強をした経験から、行政の単式簿記・現金主義会計に疑問を抱いたとされ、06年に他の自治体に先駆けて複式簿記・発生主義会計制度の導入に至った。 ■都庁職員らは 石原都政を支えた都庁の幹部職員らは今、石原都政をどう見るのか。 石原知事の下、都政の中枢で仕えた元幹部は、「都政の常識を大きく変えた。都庁の仕事はそれまで、資料の作り方から人事まで全て鈴木知事時代からの官僚政治を踏襲していたが、それらを一気に転換した」と評する。 また、別の幹部は「『カリスマ知事』の先駆けみたいな人だった」と振り返る。「今の知事を見渡すと、誰も彼も『マイクロ石原』のよう」。4期務めた鈴木知事との比較では、「鈴木さんは地方自治法を作ったぐらいだから、あくまで国のレールの上で国と対峙していたが、石原さんは国とのけんか。反骨精神みたいなものがあったのはないか」と論評した。 |