私が32歳の時に八丈支庁土木課長心得(係長待遇)なる、世にも珍しい辞令をもらった。 支庁はミニ都庁と言われ、あらゆる局の仕事を受け持っている。川や砂防の擁壁も道路の擁壁も使用目的は違っても考え方は同じであるし、派遣職員が担当しているので、戸惑うことはなかったが、事務的仕事はそうはいかなかった。 教える方も小生意気な若造相手で、大変だったと思う。当時の事務職員はすべて島の出身者で、我々内地(東京都の事)から来た人に大変親切だった。 私の右腕だった磯崎允彦管理係長(後任磯崎清光係長)、浅沼富用地担当、そして総務課の応援団が角谷正彦経理係長、沖山鈆平人事担当だった。 島の建設業者は自社の社員だけで仕事をするマイペース体制のため、工期を守る姿勢に欠けていた。〝3月60日〟は当たり前で、出納閉鎖までに終われば目をつむってくれるという慣行だった。 新年度からこれを改めるという私の方針に、島の人達は口々に「それは無理だ」と助言してくれたが、私の「不退転」の意思を確認してからは、一致団結して支えてくれた。 人事面では技術職員は原則2年ごとに交代するため、過去の図面などの管理がおろそかなので、作業員を技師補へ対角昇任させた。これが山本拓次君である。 退任後も毎年欠かさず、プライベートで島を訪問し、関係者全員と旧交を温め続けている。幽冥境を異にする人も増えたが、今でも山本君とは磯釣りや素潜りを毎夏楽しんでいる。 (いしかわ・きんじ=特定非営利活動法人「ア!安全快適街づくり」理事長・元東京都技監)
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